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鉢形城の歴史

時は戦国、武蔵の国にて乙千代丸(おとちよまる)という若武者がいた。天文十九年(1550年)、十歳にも満たない乙千代丸は、天神山城(長瀞町)と花園城(寄居町藤田)を治めるに至っていた。若年ちとはいえ、乙千代丸は秩父郡を統括していく。二三歳になった乙千代丸は、名を「北条氏邦」と改め、鉢形城(寄居町)を拠点地と定め、戦国武将としての支配者というよりは、むしろ領国経営といった東奔西走の日々が続いていく。

氏邦の領国経営には、ところどころに『翕邦挹福』(きゅうほうゆうふく)といった文字が使われており、この文字を説くと、検地や新田開発や林業、養蚕経営を通して福を得るといった意味であり、経営面に強く意を注いでいたのが伺われる。最盛期には、七十万石(武蔵(埼玉)と上野(群馬))もの領土を統治するに至った。自立性を強めていった氏邦は、対外戦略にも重要な責務を果たすようになる。永禄十一年、氏邦は最前線に立ち、武田信玄と戦で合いまみえる。この際、興津河原(おきつがはら(神奈川県)まで信玄をを追って出陣したともいわれている。翌、永禄十二年には、またもや信玄乱入に遭う。鉢形城の外曲輪(そとぐるわ)において壮絶なる交戦の末、鉢形城を防ぎきり、信玄を三増峠(みませとうげ(神奈川県))まで追い返している。ほぼ同時期に、鉢形城には、上杉謙信もが襲来している。謙信は、通算十四度に及び襲来したが、いずれも失敗に終わっている。

さて北条氏邦は、強力で統制のとれた家臣団、すなわち軍団を編成している。軍団は、氏邦の定めた軍法によって厳しく統制されており、武器、武具の手入れや馬の飼育に至るまで、これを怠り、錆びついた鑓ややせ細った馬を戦にもちいることはなかった。そして、なによりも「黒備えの軍団」といって、黒の甲冑や羽織をまとい、黒い旗を背負い、鑓や弓や鉄砲、楯を身につけ、その色を黒で統一した。土地を利用し、自然を味方につけた軍団であったに相違ないものとおもわれる。このような軍団が拠点としていた鉢形城であったため、鉢形城はまさに「天然の要塞」にふさわしいものであった。かつて万里集九という人物がこの城を訪れた際、こう述べていた。「鉢形城は、鳥も覗くことが難しいほどだ。」と。その仕組みには、自然地形を巧みに計算しており、荒川に面してそそり立つ断崖や深沢川の渓谷を防御機能とし、すべてが人の手によって造られたものとは信じがたい様相をしていたと言い伝えられている。

以後鉢形城は、氏邦の義理の弟が戦の仲裁に入り開城したことはあるものの、直接の武力によって落城したことはなかった。北条氏邦の最後の戦となったのが、豊臣秀吉による関東征伐である。この時の秀吉が率いた軍勢は二十二万から二十五万ともいわれている。関東を支配する氏邦を攻める際、秀吉はこういったといわれている。「鉢形城攻略を、中国の毛利氏を服属させる途を開いた備中高松城攻めに匹敵する事柄と位置付ける。鉢形城を落とすことが、引いては北条氏全体を突き崩す鍵になるぞ。鉢形城北条氏邦を攻める際は油断なきよう、いかにも念を入れてあたりように。」と秀吉はこう申し、氏邦を高く評価していたのです。氏邦は自身の家臣や民の命を助けるべく、最後は氏邦自身があえて人質となり、多くの人々の命を救ったのである。

鉢形城
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